TOP GUN Maveric

Mavericとは、焼き印の無い子羊。群れから離れた一頭。一匹オオカミ。そういう意味の名前です。

 

中学生の私が初めて見たTop Gunの中のMavericは文句なくかっこよくて、陽キャで妬まれることはあれど、嫌われるタイプではなくまして誰かに排除されるような人間ではないと思っていた。よくそういうキャラって出てきていたし。漫画や小説でも「もしかしたら少しイヤな奴」「実力はある」「不敵」なキャラ。その中でもMavericは主人公としての気質「まっすぐで努力家」でもあるので、ある意味王道主人公キャラとして最後は狙った女性と付き合える成功者だと思っていたんだけれども。

 

あれから35年。子供二人の親になり、改めてMavericを見直してみると、彼は際立っているけれど、偏っていてけして群れられない人なのだと気付きました。

 

それはトム・クルーズにも通じる気質なのかもしれない。こだわる人、情熱の人。

 

不器用でこの世の中を生きづらいものと感じているこどもは結構な割合でいるのだけれど、そうじゃない人たちは「考えない」からこっち側と交わることがない。存在しているのにお互いを認知しあう日は来ない。

 

でも、「考えない人」もMavericをかっこいいって思うんだ。不思議だ。とても不思議だ。過去の自分がそうだったから、余計、考えなくてもMaveric的な生き方ってかっこいいって感じる事実は実感できる。考えない人は自分を顧みることをあまりしない人なのだと思っている。自分を顧みない人がMavericをかっこいいって思う理由は自分とは違うと思ってっているからか、こういう人はフィクションだからと思ってるんだろうか。それはきっと中学生のころの私と同じ視点で、幼い視点なのではないかとか思うけど、それでいいじゃないってこの作品は言ってるから、それでいいんだ。

 

かっこいいってなんだろう?を考えさせてくれる映画でした。Mavericはかっこいいよ。彼自身の人生を生き抜いたMavericは間違いなくかっこいい。

 

ペギー・ベンジャミンが彼の最後の人になるのは、ちょっと教官に気が引けるけれどもそれこそそういうものなのかも。

 

 

 

 

 

 

言葉にして聞かせて

約4年前、祖母の異変に気が付いたのは孫である娘。アメリカから帰国して4日目。自分をすごくかわいがってくれるお婆ちゃんと楽しく話して眠ったはずなのに、朝起きるとその祖母が別の人のようになっていた。4年近くが経過して初めて「怖いと思ったことに罪悪感がある」と泣きながら教えてくれた。

 

10歳のこどもに受け止められることではない。そしてそれを一番に申し訳なく思うだろう母の性格を思う。そんな思いをさせるために東京まで会いにきたわけじゃないのに、本当にごめんねと思っているだろう。だからそれを伝えたんだけど、それじゃ足りない。

 

大人だって受け止めきれないことが起こった。そしてあなたは大人ではない10歳のこどもだった。あなたの心には「傷」が残った。傷つけたのはおばあちゃんじゃない。あなた自身でもない。目の前の現実があなたを傷つけた。だから誰も悪くない。謝ることでもない。罪悪感を持つ必要もない。

 

だからといってあなたの傷はなくならない。傷が癒えるには何年もかかる。だから思い出したら、言葉にして聞かせて。感じることはその時々で変わるって教えてほしい。

 

 

雨の日は会えない、晴れた日は君を思う

キャラだけでなくストーリーやシチュエーションだけでもなく、ああ映画を見たなと思いました

 

「雨の日は会えない、晴れた日は君を思う」

 

タイトルの「君」はこの映画の中で主人公デイビスとかかわる人全てどの人でも当てはまると思いました。

原題は「Demolition(破壊)」です。アハハ、身も蓋もないけど、そっちのほうがやっぱりしっくりくるね。甘い映画ではないから。

 

さて、

 

主人公、デイビスが奥さんの運転する車でマンハッタンへ向かうシーンから映画は始まります。デイビスは高級なスーツに身を包み、みだしなみはばっちり。いかにも金を回して稼いでるビジネスマンの風体です。奥さんも美人で聡明、でも少し結婚生活に疲れているような印象。若いといっても30は過ぎてそうな夫婦ですが、子はいない様子。そういう二人なんだなとこちらが思っている間に車は事故に巻き込まれ、奥さんだけが亡くなります。

 

奥さんの死に対して泣けない悲しまないデイビスではありますが、映画内では象徴的に奥さんの映像が挟まれていきます。「奥さんを愛していなかった」とデイビスが言うシーンもあるのですが、見ているこっちにはストンと落ちてくるセリフにはなっておらずそれは制作側の意図的なものと思われます。ただ、表面的に悲しがらず淡々と日々を送るように見えるデイビスに対して、もともと好意的でもなかった奥さん父は不信感を募らせ、その不信感の増大と振幅を合わせてデイビスの破壊衝動も大きくなっていきます。彼は奥さんがいなくなったことにより、自分自身が彼の周囲の小さなことに気がつき始めていることを自覚します。それを彼自身は「好奇心」と呼びますが、その行きつく先は破壊衝動と破壊そのもの。実家のパウダールームのライトから始まり、会社のトイレの軋むドア、デスクの上のパソコン、奥さんが直してくれと懇願していた冷蔵庫は直すという名目でいじり始めますが、すぐに破壊されひどい状態にされます。奥さんがオーダーしていたエスプレッソマシンも分解して部品になり、物語の盛り上がりには、夫婦で建てたモダンな家そのものを自らの手で破壊するのです。変化の初期、義父は彼にカウンセリングを進めます。彼自身はそんな義父と娘の名を冠した奨学基金の設立という行動に違和感を持ち続け、二人の距離はどんどん離れていきました。

彼の違和感ととまどいをぶつける先として選ばれたのは自動販売機の顧客サービス係の女性。物語はその女性とその息子、彼氏を巻き込んで次のステージへと進んでいきます。

 

身につまされる、というか、響いたというのが正しいのでしょうか、とても好きな映画だなと思いました。

 

20代だった頃の私がこの映画を見てもよくわからなかったのかもしれないと思うのですが、40代の私はこういう映画を求めてるなと。

 

好奇心、破壊衝動、愛、家族。

 

全て、生きていく上で直面し一度は考えさせられるキーワードの数々。

 

主人公デイビスがクレアの息子から落としてもらった曲を聴きながら、マンハッタンをダンスして闊歩するシーンはとても「映画的」です。フィクションと美というか。こういうシーンを見たいから映画を見てるというか。

 

この映画を見ていて、なんとなく「LIFE!」も思い出しました。「LIFE!」を見ていたときは「フォレスト・ガンプ」を思い出したことも又思い抱いたりして。「LIFE!」はフォレストガンプ的な映画になりたかったという欲望が下地に透けて見える気がして、嫌いではないけど好きでもない映画の一つです。

 

「何気ない日常」が平坦で人間的でない毎日であるという設定からこの映画を想起したのかもしれません。ただ、人生に対する厳しさの表現はこの映画のほうがリアルで(暴力や銃やマリファナが自然に出てくるところも現代をきちんと表していると思います)主人公の自分の感性を麻痺させて毎日を過ごしている演技はジェイク・ギレンホールだからこそ醸し出せているものもありました。つくづく良い俳優さんだと思います。

 

美しいと思うことが、今日や明日という小さな毎日においてとても大事なことなのだと気付かせてくれる映画です。

「愛はあった。ただおろそかにしていただけだ」

というセリフが私は本当に好きで、多く、人はこの過ちを犯してしまうものだとつくづく思うのです。

 

良い映画でした。良い映画を見させてもらいました。

 

忙しい毎日、自分にはもしかして愛情がないのでは?と思ってしまったときに観てほしい映画です。

 

 

 

 

 

アーノルド・ローベル展 がまくんとかえるくん

play2020.jp

 

アーノルド・ローベル展についての所感をいくつかメモ代わりに残しておきます。


昨日(1/9)から始まった同展にどうしても行きたかった私は前売りが始まった直後に日付指定のチケットを購入済み。緊急事態宣言が発出されできるだけ自宅で、といわれた三連休の中日でしたが、同居家族だけで行くことは決まっていて会場でおしゃべりする人もいないだろうという前提のもと、行ってきました。今日のチケットを購入したのはどうしてもがまくんとかえるくんのぬいぐるみを手にいれたかったから。(今日の段階でのグッズの状況は、在庫は潤沢、いつでもきてね!って感じでした)


子供、ファミリー向けと思われる施設での開催で絵本作家をどう展示してくれるのか楽しみにしていきましたが、ローベルの個性を重視した展示の仕方にこれは良いぞと最初から本当にわくわくしました。わかりやすく簡潔な文章でのローベルご本人の紹介から始まり、がまくんとかえるくん以前の作品の展示が始まります。「ぼくのおじさん」を描くために書かれたスケッチのシンプルなラインが、本当に素敵。「ふくろうくん」「おはなしばんざい」「マザーグース」知っている絵本の原画がたくさん展示されています。簡略化された線の流れ、鉛筆スケッチの線の強弱にローベルの実在を身近に感じられました。これが展覧会のだいご味なのだ…そう思いながらずんずん進んでいくといよいよがまくんとかえるくんの展示コーナーになります。大きく印刷され読みやすく壁にはられていく「おてがみ」の全ページ。教科書に載っているお話ですので日本では一番有名な作品です。それから、各お話の要約のボードの横に、そのスケッチや下書き、原画などが展示されてあります。愛があるなあと思ったのは、ローベルと編集者とのやり取りが残された下書きの展示!やり取りとともにその後、作品がどうなったかもシンプルに解説してあってとても楽しいのです。編集者のがまくんとかえるくんへの愛が伝わってくるのもよい。時を超えて。「良い絵本作家の影には良い編集者がいるんだよね」と絵本編集者を父にもつ夫がつぶやいていました。

 


会場では3分ほどのがまくんとかえるくんのアニメーション作品が流されていました。クオリティが非常に高くてこれはただものではない人が作っていることはすぐにわかりました。アニメーション作家の加藤久仁生さんはアカデミー賞を受賞した方。そりゃ、実力もある方なのだろうけれど…。でも…これはがまくんとかえるくんを愛していないと作れない作品だよなあ…と思いました。愛がね、あふれてました。優しい二人の大事な一日一日、それが一年。お互いに何よりも大事な相手と、過ごす日々と別れて帰宅して相手を思う時間。思いをはせるだけでも胸がぎゅっとなるその時間を見事な技術で動かしてくれているんです。色使いも絵本を尊重したあわい茶色と緑。おどるようにがまくんのおうちへ行き、寝てるがまくんを起こし、二人でクッキーを食べ外へ行く二人。その動きひとつひとつが想像通り、いえ、想像を超えたリアルさで迫ってくるのです。私、このアニメーションを見るためだけにこの展覧会に行ってもいいと思います!!
グッズもかわいいものばかり。今回は人気どころばかり購入してきてしまったので、次回(行くの!?)は限定商品というやつも手を出してこようかな…と思っている次第です。立体になったがまくんとかえるくんは本当に本当にかわいいんです!!

 


さて、なぜ私がこんなにがまくんとかえるくんに惹かれるのか。それは多分、なんですけど、この物語が「愛情」を軸に描かれていると感じているからなのだろうなと分析しています。「愛情」といっても、いろいろありますのでここでは私が思うそれとがまくんとかえるくんの中で描かれている愛情がとても重なる、という表現が正しいかもしれません。

 

教科書に載っている「おてがみ」だけを読むとがまくんとかえるくんは親友なんだなあ、と思えるのですが、連作を最後まで読み通すと彼らの関係性にやはり「愛」それも「恋愛」に近いものを感じます。関係をはぐくむ中で事件や誤解が生じ、最後にお互いを尊重するために距離を置き、やはりあなたは私にとって不可欠な存在であると再確認し寄り添う姿はやはり恋人同士のそれに見えました。

 

私は強烈にこの話に惹かれていましたがそれがなぜなのかあまり深く考えたことはありませんでした。が、昨年突如ネットに流れてきたアーノルド・ローベルはゲイだった、という記事に衝撃を受け、そうか、だからかと納得もしたのです。だから、私はこの作品にこんなに惹かれていたのか、と。

 

特に本人が明確にコメントを残さずこの世を去ってしまった中、彼本人が同性愛者だったことが同性として描かれるがまくんとかえるくんの関係性に「恋愛」を持ち込む下地となっている!と断言してしまうのはもしかしたら自分勝手な解釈なのかもしれませんが、実際彼の娘さんがそう言っているので、そうなのだでいいのではないでしょうか。

 

今回の展示の中で、彼のセクシュアリティに言及する記述はありませんでしたが、発行された図表「アーノルド・ローベルの全仕事」の中にははっきりとその件が記載されています。ローベルの二人のこどものロングインタビューも収録されていて、ローベル個人がどういう人だったかを理解するのに多いに役立ちました。

 

私は、がまくんとかえるくんのあくまでもお互いを思い、対等でいたい、いようする姿勢がとても好きです。それはローベル本人がずっと大事にしていた価値観であったと思います。

 

人生の中で「好きな絵本作家は?」という質問がきたら、間違いなく私は「アーノルド・ローベル!」と答えるでしょうね。

愚鈍でおおらかな

公開模試の偏差値が50を超えた。息子の。

 

うちの息子の脳の構造は少し独特で、いわゆる「目から鼻に抜ける」というタイプではない。かといって、すごくバカなのかというと、多分違う。多分。

 

昔から私の中では実父と息子が同じグループに見えている。私から見ると実父は非常に「鈍い」人だ。面白い話や気の利いた話を理解するのが困難な人。スピードが遅い人である。理解に時間をかけてしまうので、一般的には愚鈍に見える。愚鈍だが忍耐力はあるらしいので、長い目で見ると結構結果を出すタイプでもある。実際実父は非常に高学歴であり、一緒に生活している間も遅いのでつまらないと感じることは多々あったが、教養がないと思ったことは全くなかった。

 

それと同じグループとして生まれた息子は、教養をつける前の父。つまり純粋に愚鈍な子だった。それをどう育てていくかは私と夫に半分くらい課せられていたと思う。父と私との間によこたわる大きな軋轢のせいで心の半分くらいで父を憎んでいた私が息子に憎しみを抱いてしまう自分を自覚する瞬間も多かったのだが、実母や夫の助けを借りながら一つ一つ乗り越えてきた。小学校にあがるくらいまでがとても辛かった。愚鈍なだけの息子を愛することは特に実父と重なっている部分を強く感じていたこともあって、とても難しかった。

 

紆余曲折あった(辛いので割愛)。世界中を連れまわしてしまったので、そのせいで息子の言語力、学力の伸びが悪かったように思う。成績優秀者に憧れることももうなくなった今年、息子の偏差値が50を超えた。

 

息子との紆余曲折は、息子と常に話し合い、私が息子を非常に大事に思っていること、命を引き換えるのを厭わない大事な息子だということを言語、非言語のコミュニケーションを通じて伝えてきたことでどうにか大事にならないまま今にいたってくれている。息子の持って生まれたおおらかな性格のおかげだ。実父も蓋をあけてみれば、とてもおおらかな人であった。

 

息子の努力が、身を結んできているそのことに何よりの喜びを感じる。

 

六本木

GWの旅から帰宅して息子は部活、娘は勉強と過ごす一日。夫が美術館へ行こうと誘ってきた。

 

www.suntory.co.jp

 

午後三時。行くかどうかを子どもに問うと、今日はテレビも見たいしやりたいこともあるので二人で行ってきてもいいよと言う。

夫と家を出る。歩くと時間がかかりすぎるね、ちぃばすという選択肢もあるけどどうしようかと話しているうちにけやき坂に着いてしまったので、そのまま徒歩で六本木ミッドタウンへ。

 

Fujifilmの無料展示もいつもふわっと開催されていることは子らが学校からもらってくるチラシで知っていたのでそこにも寄った。

 

ujifilmsquare.jp

fujifilmsquare.jp

 

贅沢な展示だなと眺めながら思う。歩いて、美術館へ行く途中で寄った場所の無料展示。旅先で出会う贅沢だと自覚しつつ、今この場所に居住できていることを尊く受け止める。ずっとじゃない、今だけだから。

 

本命のサントリー美術館の展示はなかなか面白いものでした。黒(Inspiration)コースから白(Information)コースをたどりましたが、黒コースで抱いた形容詞的感想に白コースで情報を足していく鑑賞方法は興味の抱き方をより深められるとても有用な方法でした。「古いこと」に重きを置く展示ではなく「自分」をベースにして鑑賞した実感を持てることがスゴイ。どんなに短い時間でも構わないので自分の中の価値観や見方を一端受け止めるという行為がとても大事なプロセスであり知の好奇心を満たすための原動力にもなるのだということを具体的に実感できました。

 

自分の芸術への考え方や見方を客観視できるので何より楽しい。白コースの説明も淡々としていて、各言葉の定義をさらっと書いてくれたり鑑賞者の理解をある程度予測しながら説明してくれているので心地よかった。

 

振り返ると、本当に素敵な展示方法だったのね。

 

六本木散歩のついでに、ちょっと自分の内面を覗けるきっかけをもらいに、行ってみたらいいのではないでしょうか。

 

と、ゆっくり鑑賞していたらあっという間に午後7時。子どもたちがお腹を空かせているからと急ぎ足で帰宅して晩御飯の材料を買いながら帰宅。

 

良い一日でした。

 

(一日のしめくくりに息子に「部屋を片付けろー!」と怒ってしまったことについては反省。気分で怒ってはいけないよね。行動でしめせるように…)

五反田TOC

先週末の夫との散歩で五反田のTOCまで歩いてみた。徒歩30分。悪くない。だが一人で行くなら自転車かな。今日は娘のスカートを買いたいのでちょっと行ってみよう。

 

五反田へ自転車で行くのは今回が初めて。TOCの駐輪場は探すまでもなく入り口真ん前。ぎゅうぎゅうに停められているけれども、全く歯向かえないわけではないので適当に駐輪。いざ。

 

と、いっても私は相変わらずTOCの使い方というものがわからない。卸売り…ビル…なんだよね?でも一般店舗もあるし小売りもやってるし…。どう使えばいいのか知りたい。

 

TOCは母がよく口にしていた呪文。私の実家は札幌だけれども、母は東京へ行っては叔母二人と「TOCのバーゲン」なるものへ行っていた。TOC=通常お高い服がお安く買える場所。優待券(?)がある人間にしかアクセスできない会場があり、そこには掘り出し物がたくさんあるらしい…。私の中にもおぼろげなTOCの思い出がある。自分がいくつだったかまでは覚えておらず、雨の日、目黒の叔母の家からバスで赴いたその場所がTOCだった。小学生だったかなあ。そうそう東京へは行っていないはずなのでよく思い出してみればいつくらいというのがわかるかもしれないけれども、でももうあまり聞ける人も居ない。

そんなTOC。今回の東京生活で実は三回目。まだ夫が赴任先から帰ってきていなかった日曜日、塾にも通っていなかった子どもたちと「今日はユニクロでお買い物をしよう!」と山手線で五反田まで行って歩いてTOCへ行った。現地へ行くまでそこがあのTOCだったかどうか確信をもてなかったのだけれども聞くまでもなくいけば分かった。二回目は先週末、散歩の目的地としてデカいユニクロがあるTOCに夫を連れて行った。そして今日、チャリ。この三回の中でとにかくTOCには子供連れ母もしくは若い夫婦の客が多いことには気づいていた。なんでやろ?と思って4階に行ってみたらどでかい赤ちゃん本舗が入っていた。納得。駐車場付きの赤ちゃん本舗が五反田にあるならそりゃ来るわな…。

 

で、4階からそろそろと1階まで回ってみたんだけれどもそれでもやっぱりこのビルの使い方がわからなかった。個人商社みたいなところが事務所兼店舗として使ってるんやろなあと思いながら目的地ユニクロへ。うちの近所で唯一キッズ服が置いてある店舗だ。

 

結局買う予定ではなかった自分用のパンツも入手。まあいっか…と思いながら次は目黒経由で家に帰ろうと五反田を出た。首都高の下を通って上大崎の交差点へ。右折すればうち方面だけど…せっかくここまで来たんだし、と目黒アトレ前の駐輪場へ。だが案の定満車。安心してください。アトレ2の裏に大き目の駐輪場があるのでそこにまあぎゅうぎゅう詰めで駐輪。さて。

 

ドンキプロデュースのピカソってなんやろなあ、と思いながらプラプラして娘のホワイトデー用の袋キャンディを購入(メインのお菓子は月曜に渋谷で購入済み)。ラッピングは100均なのでキャン★ドゥを探し当て購入。そこ、東急ストアなんだけどね。そこに駐輪出来ることに気が付いた。やだー。やったー。これで目黒に行っても悩まないでいいわあとニコニコ顔になる私。

午前中も終わるし今日は娘が4時間で帰宅するのでそろそろ帰んなきゃ。

ガシャコンと自転車を出した。

目黒駅前はいつも混んでる。

白金台を抜け、うちへ──

 

 

 

東京はずっと叔母たちの街だった。

母の姉の叔母1は中目黒にマンションを持ち、母の妹の叔母2は洗足の一軒家に住んでいた。東京の中でも結構悪くない場所に居を構えていたので、なかなかそういうくらしはできないものだということを小さい頃からなんとなく聞き及んでいた。

始めての東京は叔母2の助力もあり、目黒区と大田区の境目の大岡山。そこの一人暮らし用物件を借りたのだがそこそこの家賃は要求されたものの、非常に便利で暮らしやすかった。治安も良かった。東京は楽しいということを実感したのもそこが最初だ。

次の東京は江戸川区新小岩。下町人情溢れる街で上の子を小学校にあげたもんだからママ友繋がりもしっかりできた。そこも楽しかった。

その後また国外での生活が続き、今は港区に住んでいる。人のつながりは求めていない(こどもたちも大きくなったので)ことも幸いしてか、淡々とした人間関係が今のライフスタイルにはぴったりだ。

自転車で走り回れる範囲全てが「知っている地名」ってとこがいい。

私は22歳で実家を出てからずっと借り物の家に住んでいてそれが性に合っている。定住は怖い。とらわれるのが怖い。だから旅人から転勤族になった夫と価値観が共有できる。

港区のくらしも期間限定にしようと思っている。しばらくはここにいるけれども、家はまだ買わないのだ。

 

だからこそ、この街を楽しいと思えるところがある。

 

あの、子どもの頃の漠然とした思い出が残ってる五反田TOCに自転車で行けちゃうんだよ。

(六本木も東京タワーも皇居も全部行けるけど)

 

ふふふ