大人

楽しいと思うことが少なくなった。

 

母が倒れて以来、以前ほど楽しさを感じなくなった。

この作品が好きだなとかもっとああいうのが読みたいなということが確実に減った。

 

壊れちゃったのかな、と思うと同時に多分、私は大人になったのかもしれない、と思っている。

 

年を取るということをしているのかもしれない。

春になったら

大事にしてきたつもりでも、それでも足りない。

 

昨年4月に母が倒れてからずっとそう感じている。

出来るだけのことはやってきた。その時の精一杯だった。それはわかっている。わかっているけれど、その瞬間の私へ声をかけたい「もうちょっと話せるよ」「もうちょっと座らせてあげられるよ」「もうちょっとありがとうって言ってもいいよ」「もうちょっと一緒に」

 

林遣都市原悦子主演の映画「シャボン玉」を観た。

市原悦子さん演ずる婆ちゃんの姿に母が重なって、涙で前が見えなくなった。長くはまてないと笑いながら言う姿は本当にそのもので、あの年齢の女性と死はとても近いことを実感しているだけに胸が苦しい。

 

倒れる前日の母の姿で覚えているのは後姿。最後まで最後まで私の世話をみようとしていた背中。脳梗塞を起こし、脳の半分は機能しなくなっていたのにその日の朝食を作ろうと懸命に起き上がろうとしていた母。

 

母にもっとありがとうと伝えたかった。もっと一緒にいたかった。もっと一緒に色々なことをしたかった。

 

あの時、もし母がそのまま亡くなっていたら、私の傷はとてつもなく深く癒えることはなかった。母はその病を乗り切り、今は故郷札幌の地で今日も目覚め、食事をして息子たちや孫に会えるのを楽しみにしている。

母がこの世にとどまってくれていることで、私は息をし笑えている。

 

そして息をするように母のことを思い出す。

 

母を恋しく思い出す。

4月、雪が解けるころにまた母に会いに行く。

ありがとう

今日、子どもたちと駅付近を歩いていたら少し訛りのある日本語で「スミマセン!おカネ!」と声をかけられた。数メートル向こうで自転車に乗ったまま足をついてこちらを見ていたのはインド系の20代~30代の男性。自分のお尻のポケットを叩きながらこちらも見てもう一度「おカネ」と言う。さきほど本屋に寄った後に二千円を尻ポケットに無造作にいれたことを思い出した。自分の尻ポケットを触るとその二千円がもう落ちそうなくらい顔を出してた。顔をあげると無表情な彼の瞳と目があった。「ありがとう!ありがとうございます!!」と彼にきちんと届くように大きな声でお礼を言った。それを聞き彼は『頼むよカーチャン』といった表情を残しそのまま自転車に乗り直し走り去った。

 

 


この国で働く外国人の、訛りがあったり流暢だったりする日本語を耳にするたびに、この国に来てくれてありがとうと思う。それは私が同じ立場にいたことがあるからかな?そうじゃないかな。

彼らがここで暮らす上できっとこの土地を好きだと思う瞬間も嫌いだと思う瞬間もあるはずだ。そういう気持ちが重なって、見知らぬ土地は故郷になっていく。この国を選んで住んで、働いているのであれば、ただ嬉しく思う。私はこの国が好きだから、ここに来てくれて好きになってくれていたら嬉しいなと思う。

何かに必死であるということ

何かで必死であるということは、悪くないことだと思います。

 

凡人でも必死に何かを考え続けていればなんらかのものを残すことも出来るのかもしれない。残さなくてもいいのです。必死であったという事実さえあれば、それだけで十分なのかもしれない。

 

 

叔母のこと

叔母は、幸せな人だと思います。

母は叔母を可愛がっていました。今、叔母と話していてそれを実感します。

母は弱音を吐く人ではなかった。

母は弱みを見せる人ではなかった。

だから叔母は叔母の理想の母を守ることが出来た。

私はそれを打ち砕いている。

 

私は世界を憎んでいる。

母が世界を憎んでいたように。

私は世界を愛している。

母が世界を愛していたように。

 

母は、私たち三人の子をとても愛していました。

私たち三人は母の愛を疑ったことがありません。

私たちの三人を守るために、母は命を投げ捨てるだろうことを実感しながら育ててもらいました。母の傍にいる時は私たちはいつも安心していました。

 

母は父を憎んでいました。

叔母にはこういいました。

「嫌いあってはいたけれども、憎みあってはいなかった」

でもそれは嘘です。

母は父を憎んでいました。

好きで一緒になったからこそ、憎んだのです。

 

叔母は、そういう母を知りません。

母は叔母にそういう自分を見せなかった。

それが母の叔母への愛であり礼儀だった。

だから叔母は知らない。

 

そして、私はそんな叔母を少し憎く思っています。

私はこんなに傷ついているのに、あなたはなぜ知らないままなのかと。

私は母の憎しみをこんなに背負っているのに、あなたには何も背負わされていないのかと。

 

叔母は叔母でしかないんだと思い知れ、と。

「姉がこんなふうになってしまって、ごめんね、って感じるんだ」と叔母が言ったとき、この人は何を言っているんだと思いました。

お前に母の何がわかる、と。

お前ら姉妹に母の辛さの何がわかる、と。

母の半生は怒りと憎しみと慈しみで埋まっています。

慈しみはわたしたちと動物たちに。

怒りと憎しみは父と父の家族に。

 

そしてそんな父と母の幸せを誰よりも願っていたつもりでいるのが私です。

数値化できるものではないので「誰よりも」という部分が思い上がりであり傲慢であることは頭ではわかります。

その思い込みは私の中から消えることは無いのです。

兄たちよりも、私。

あの渦中に最も長くいて母と同性であった私にしか母の怒りと憎しみと絶望はわからない、と思っています。

 

叔母はそんな母を知りません。

なのに、母を知っているようなことを言います。

 

そうですか、と思いたまにイジメるようなことも言っていまいます。

そして叔母はそれを受け止めるのです。

 

叔母は母と同じ「偉大な母」のカテゴリーに入る女性です。

私は母と同じように、叔母のことが好きです。

叔母は優しくて自分は味噌っかすだと思い込んでいる小さな少女のようにも見えます。

私は強いおばさんです。

人を憎むことを知っている嫌なおばさん。

 

だから叔母が眩しくて、憎い。

ごめんね、お母さん。そんな私こそ醜いのかもしれない。

 

明日、叔母のことを憎むのを辞めてみよう。

母のために。

生きるということ

生きるということ。

 

死ぬということ。

 

考えるということ。

 

母が、脳梗塞で倒れました。

朝、起きてこない母を起こしに行くと挙動がおかしくて、救急車を呼んで。

 

入院翌日に、頭蓋骨切除の外圧を下げる手術をして、二日目にはダメになった脳を取り去り内圧を下げる手術をしました。

 

脳を、切除したのです。

 

思考と言語をつかさどる左脳前頭葉を切除。

 

脳幹を守りましょう、と先生は言いました。脳幹を守って残って生きている脳部分を守れば後はリハビリでどうにかなります、と先生は言いました。よくわからないけれど、そうなんだろうと思いました。重症の脳梗塞を患った母は手術のおかげで、死ぬことを避けられました。

 

母は、私が大好きでした。私も母が好きでした。依存症寸前の母子関係であった私たちは多分お互いを体の一部のように感じていたのだと思います。

 

母は孤独だと私は思っており、母は不器用な私の何かの役に立ちたいといつも思っていました。少し不気味なほど、母は私に献身的でした。

 

それが私は嫌だったのですが、それも依存しあうお互いへの甘えだったのだと今はわかります。

 

母が目を開けてこちらを見るそぶりを見せます。意識はまだ戻りません。それでも、目を開けてこちらをみようとする母は少し他人のようでもあり、わが子のようにも感じもします。母は母なんですが。

 

母は生きています。